願うとき人は、神仏の「声」にも気が付きにくい。ひたすら自分が話しているからである。
祈るとは、願いを鎮め、彼方からの声に耳をかたむけること、無音の言葉を聞くことなのではないだろうか。
若松英輔さんの著書に、あった一文です
『ひとりだと感じたとき あなたは 探していた 言葉に出会う』
神社などに参った時、願い事をするのではなく、感謝をするべきと言われます
けれど、それすらも、自分が話している、ということです
みみをすます

この文章を読んだときに『みみをすます』という谷川俊太郎さんの詩を思い出しました
同時に思い出したのが、福島県の金山町にある民宿『みみをすます』でした
こんな名前を付けたオーナーに会ってみたくて、福島県まで行ってみました
雪に囲まれていると、包まれているような安心感がある、と言っていたのは、同じ町に住む人です
北国の人は、静寂の中で暮らすうちに、耳を澄ますという所作が、身に付くのかもしれません
残念ながら、宿泊の予約をキャンセルせざるを得なかったのは、大雪のためです
それでもJRで会津若松まで行って、駅近くのホテルで一泊してきました
どうしても、雪口の静寂の中に身を置きたかったからです
祈り

耳を澄ますことこそが、祈りであり、瞑想なのだと思いました
自然の音に耳を澄ます
他者の言葉と気配に耳を澄ます
自分の心と体に耳を澄ます
頭の中にある言葉を静めたときにしか、様々な音や言葉は聞こえてきません
そのために行うのが瞑想です
聴く

ニール・ドナルド・ウォッシュの著書に書かれている言葉も、耳を澄ましたときに聞こえてきたのでしょう
神に語りかけ、尋ね、愚痴をこぼし、文句を言い、言葉が尽きた時に、聞こえてきたはずです
『神との対話』
大勢の人が行っているジャーナリングも、言葉を吐き尽くすことが目的です
頭の中のおしゃべりは止まりません
それでも、祈る時には、ふと心に静寂が訪れます
願っている自分の浅ましさに気づき
感謝の中に潜んでいる期待や願いに気づくとき
彼方からくる言葉を待つ、静けさに包まれます